埼玉古墳群のミステリーの扉を開ける鍵
埼玉古墳群が国指定特別史跡に認定されました。国にある史跡の中で学術上の価値が日本の文化を象徴するものとして与えられる特別な称号で、現在全国で63か所認定されていますが、この意味することは史跡として「国宝」という事です。埼玉県では初めてです。他には北海道の五稜郭・岩手の中尊寺・江戸城・大阪城・姫路城、金閣寺等で、これらの史跡と横並びで同じ「特別史跡=国宝」です。
素晴らしいですね。
埼玉古墳群はミステリーの宝庫
埼玉古墳群におけるミステリーはたくさん存在し、発掘大国日本の割に前方後円墳の発掘調査が技術的に難しいこともありあまり進んでいない関係から、現存する発掘資料や説を頼りに推論や仮説でミステリーに迫るしかありません。
そこで、埼玉古墳群の「ミステリーの謎を解く鍵」を当会が推論考察しました。
もちろん、さきたま史跡の博物館の監修外のことになります。
本当の真実を暴くのは皆様です。
埼玉古墳群の10大ミステリー(沢山のなぜ?)
- 中央集権との強い結びつきを表す前方後円墳築造が埼玉県は群馬県よりおよそ100年遅く建造が始まったのはなぜ?
- しかも埼玉県でほぼ最初期の前方後円墳(埼玉古墳群最初)の稲荷山古墳(全長120m)から「国宝金錯銘鉄剣」が発掘され、そこに記載された115文字により持ち主が【先祖が第8代天皇孝元天皇(紀元前273年生まれ)の長子(オオヒコ)に縁のある家系で本人はワカタケル大王(雄略天皇)を守る武人(杖刀人)の長であるヲワケの臣】であることが判る。なぜ?埼玉古墳群最初の古墳「稲荷山古墳」からそのように中央集権と強く結び付き、信頼関係がないとなれない高い職務を任されていたヲワケの臣が登場するのか?
- 埼玉のヲワケの臣の先祖が孝元天皇の長子であるオオヒコとなぜつながるか?
- 巨大な古墳は主が存命のうちから作られることが多いと言われているが、なぜ稲荷山古墳からは最初期に作る横穴式石室がないのか?
- なぜ?発掘された隣設の将軍山古墳の埋葬者も武人であったのか?
- なぜ?埼玉古墳群のお壕は一般的な釣り鐘型でなく四角い盾のような形をしているのか?(現存では他に千葉県の古墳で確認できます)
- また埼玉古墳群の前方後円墳のお壕は中央集権と深い関係を証明する。二重周濠(鉄砲山古墳は三重周濠かも)なのか?
- ヲワケの臣が使えたワカタケル大王は大和朝廷を統一するため初めは殺戮を重ねて国を広げていったことが判っていますが、晩年は「その地に代々住む人々を滅ぼしてまで国を広げるのは如何なものか?」の考えを持たれ協調性にシフトしていったともいわれています。その大王が杖刀人の長(天皇をお守りする武人の隊長)のヲワケの臣をどうして埼玉の地に使わせたのか?
- その他、日本最大級の円墳「丸墓山」をなぜ中央集権との協調性の証である前方後円墳の時代に埼玉の地にあえて時代に逆行して作ったのか?
- 稲荷山古墳は仁徳天皇陵(大仙古墳)等中心的古墳と同じ設計図で仁徳天皇陵(大仙古墳)の2/8尺で作られている(資料)
その他の謎
行田市近郊には他にも興味深い謎が存在致します。
行田市を発掘調査するとあちこちから6000年から4500年前の縄文時代の集落跡や縄文式土器があちこちから出土します。しかし、その後の弥生時代の遺跡や遺物は本当に少なく、なぜ巨大集落が消えてしまったのかが、空白の3000年が行田の古代の歴史に興味を持つ人達の謎であります。
当会推論ですが当時、
- 利根川や荒川の河川の氾濫、洪水が今よりはるかに多かったこと
- 弥生時代、海の水位が現在よりも相当高くなったため、海水が内陸まで来ていたことにより埼玉県や東京都は湿地帯が非常に多かったこと
実際に江戸幕府の開祖徳川家康の時代でも東京埼玉は湿地帯が多く、幕府を開くのに不適切な土地でありましたが、家康の大改革により利根川と荒川の流れを変えて農耕や住居に適した地域として大変貌を遂げました。
これらの事由により当会の判断では、埼玉県は群馬県(日本一前方後円墳が多い)に比べ100年近く集落の安定的定住が遅れ、大集落、大豪族が少なく大和朝廷との結びつきが遅れていた可能性があるとみています。
いよいよ行田の埼玉古墳群のミステリーの謎を解く【謎の扉】の鍵
なぜ?埼玉にワカタケル大王(雄略天皇)の杖刀人(天皇を守る武人)の長であるヲワケの臣が使わされたのかが最大のミステリーです。
【ヲワケの臣は金錯銘鉄剣に第8代孝元天皇の長子オオヒコにゆかりのある畿内の豪族の出身であり天皇を御守りする武人である事が記載されています。代々天皇をお守りする武人の家系なので、前方後円墳を代々持たない地方豪族の武人が代々天皇を守る杖刀人の長に登用されるわけがないというのが当会の考えです】
以上ヲワケ臣に関わる最大のミステリーが、全ての埼玉古墳群のミステリーを解く鍵になります。その【鍵】は以下の推論から。
【鍵】
【ワカタケル大王(雄略天皇)は、群馬の豪族の反乱を杞憂し、その反乱を未然に防ぐため、友好関係を構築した埼玉(さきたま)の豪族(武蔵国造の豪族の一つ)に「一大ミッションとしてヲワケの臣を派遣」軍事拠点的役目を背負った国家を作った】
群馬は文字通り「馬が群れる」と書き当時は管轄下の長野県にも牧場を所有し、日本でも最も軍馬を多く所有できたといわれております。群馬は県全体に100mを超える大型古墳が多数存在し(実際前方後円墳は日本一数が多い)多くの大豪族が存在し、群馬地域で統一的反乱を中央集権に対してされたら由々しき事態になると杞憂した時の雄略天皇が、群馬を監視できる軍事拠点を現地豪族と繋がりヲワケの臣の一族を埼玉に派遣した可能性が高いと当会は推測しております。
それによりいきなり埼玉に仁徳天皇陵の2/8尺と言われる巨大な稲荷山古墳が作られ、ヲワケの臣(もしくはその兄か親にあたるかも)の死が早かったため横穴式石室を作る時間が無く石室築造技術も伝播途中であったためと当会は推論しております。
実際に当時の中央集権は各地の巨大豪族の謀反(忌部氏も含まれていたと推測)を監視させるために時に人々を各地に派遣し(その一部の集落が残した前方後円墳と考えられている栃木の駒形大塚古墳や茨城の三昧塚古墳など)単独で寂しく存在する姿が現在でも確認できます。
考察
【千葉、茨城、栃木は大和朝廷確立以前の古豪忌部氏 に関わる古墳が多くあり、( 忌部氏 のルーツは四国の阿波であり千葉は現在でも安房と呼ばれ、名前のルーツは忌部の阿波から2~3世紀に千葉に勢力が渡りその地も「あわ」と呼ばれ、後に当て字で「安房」となったと推論されている)忌部は大和朝廷設立時に排斥されたので、この辺りの勢力は大和朝廷としたら常に杞憂する地域であった可能性が高い】
もし、「ワカタケル大王の一大ミッションによりヲワケの臣が埼玉に派遣された」の仮説が当たっているとするなら、多くの埼玉古墳群のミステリーの謎がいっぺんに解決して参ります。それは
① 突然埼玉に大国ができた事
群馬の勢力の監視及び牽制のためのミッション(東松山の野本将軍塚古墳も?)
② 最初の前方後円墳が大きな稲荷山古墳であった事
最初から巨大集落であった
③ 孝元天皇の長子オオヒコにつながる杖刀人(天皇を守る武人)の長であるヲワケの臣が金錯銘鉄剣と共に埋葬されていた事
中央集権から1大ミッションで畿内より派遣されたから
④ 仁徳天皇陵の2/8尺の2重のお壕の古墳である事
重要な地域で中央集権と埼玉の関係性が密のため
⑤ 埼玉古墳群のお壕はなぜ2重なのか?
一定の規模以上の集落であったことと、やはり中央集権とより深い良好な関係で合った事の証明になる
⑥ 横穴式石室が稲荷山古墳には存在しない事
時間的に技術的に築造技術の伝播が間に合わなかった(他の古墳は横穴式石室が確認されているものも多い)
⑦ 並立する将軍山古墳の埋葬者が武人であった事
当初武人が主の集落であった
⑧ なぜ日本最大級の円墳丸墓山が、埼玉と中央集権の関係が良好であったと推測される時期に作られたのか?
中央集権から派遣された極めて位の高い国司が埼玉の地で亡くなり、その御霊を祭るために埼玉が中央集権に最大の敬意をもってつくられた可能性が高い
そうなると、もう一つのミステリーであるなぜお壕の形が四角なのかも「武器の盾」を模しているのではないか?と推論できます。
当時海洋王国であった千葉【中央集権から排斥された忌部氏 に関わる集落が多数存在する。現在でも忌部氏 の神社が多数存在する】にも監視のための軍事拠点が必要であり、そこに同じようなミッションを持った武人の一族の前方後円墳のお壕が四角のお壕を象徴的に作り現在に存在している可能性が高い
と我々の妄想が止まらなくなります。
結論の2はヲワケの臣はワカタケル大王から一大ミッションを任された我々埼玉古墳群のヒーローです。
備考:日本書紀にも記載のある「武蔵国造の乱」この戦いは史実として100%証明された戦ではありませんが、この戦は第27代安閑(あんかん)天皇元年の西暦534年に武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が国造の地位をめぐって群馬県の豪族上毛野君小熊(かみつけぬのきみおぐま)や多摩川沿いの豪族と組み起こしたといわれています。
この国造の乱で埼玉は笠原直使主と組むことなく、大和朝廷と共に戦って勝ったとされる言い伝えが残っていることからも【大和朝廷の雄略天皇のミッションは雄略天皇死後50年余りにも機能していた】のではないかと我々行田古代米カレーの会は推察しております。
終わりに
どうぞ今回の埼玉古墳群に関わるミステリーだけでなく、文字としての記録の少ない古墳時代=現在の天皇制が定着し国体(國體)が整う時代のミステリーをひも解く旅に皆様も出発してください。我らがヒーローのヲワケの臣が使えたワカタケル大王(雄略天皇)は大和朝廷の中央集権を初めて確立した天皇と言われ、日本に於いて大王(天皇)による専制支配の礎を確立した人物であり、新羅への出兵、中国の「呉」への遣使などたくさんのストーリーが残る人物で、私達行田市とのつながりも大変深かったと推理しています。歴史の探訪と推理考察は日本人のルーツとアイデンティティを探るわくわくする旅になる事請け合いです。今回の我々の考察はロマンであり、妄想の域を抜けていませんが、皆様も皆様なりの推理と大胆な想像で【10大ミステリー】の謎解きをなさってください。とてもわくわくすることと存じます。実際に「事実は小説より奇なり」ですから。
ね!埼玉古墳群は本当に面白い特別の古墳群でしょう!
さきたま古墳公園に皆様だけのミステリーの扉を開ける鍵を持って見学頂ける日を我々楽しみにしております。
その時は是非「さきたま古墳・行田古代米カレー」を食べて帰ってください。
【参考資料】
仁徳天皇の陵墓と
同じ設計図で
出来ている
稲荷山古墳(2/8尺)
第21代雄略天皇 中央集権制を全国に波及させた
当時の織田信長の様な勇猛な大王
【ワカタケル大王】と呼ばれた。
ヲワケの臣が御守りした天皇
西暦418年生まれ
西暦479年8月7日没 奈良県桜井市に於いて
歴史フォーラムの時
ゲストの長緒鬼無里さんが
デザインしてくださった
ヲワケの臣